第1話
1991.10.06
1991年10月6日  スタートの日
ピラミッドも街も人々も、何もかも全てが褐色の街、カイロ。
この街を著すのに、エキゾチック、異国情緒と言う言葉では、到底役不足でしかない。
息が詰まりそうなあの空気。
毒蛇の巣にも似たあの景色、あの町並み。
何一つ解読しえない文字、聞き取れない言葉。
町中に響き渡るコーラン。
睨み付けるかの様な、目、目、目。
このとてつもない不気味さを、言い表す言葉は一体どこに有るんだろうか?

深夜。一人。
誰もいない廃虚の町を、息を止め、恐る恐る歩いていた。
突然その時、地面が足もとから崩れ墜ちた。
あぁっー-ーーーーーーー、真っ暗闇の穴の底へ、砂、石に巻かれ、グチャグチャになりながら、引きずり込まれてゆく。
どれぐらい時間がたったのだろうか?
夢の中のようにぼんやりとした、薄い意識の中ではあるが、次第に暗さに目が慣れて来た。
いつまでも治まらない 砂埃に霞んではいるが、ぼんやりと周囲がわずかに見え始める。
廻りには何千体もの骸骨がある。
ここは巨大な墓場に違いない。
身体の回りの地面を、ゾワゾワと毒蛇や虫が這っている。
何処にも出口は見つからない、増しては身体はぴくりとも動かない。
目の前のしゃれこうべは、うす笑みを浮かべている。
これほどのおどろおどろしさ、カイロ

アフリカ最大の都市、カイロ
その西ギゼには古王国時代の帝王(ファラオ)であるクフ、カフラ、メンカフラ、この三王の巨大ピラミッドがそびえる。
ピラミッド斜め南側には、人頭獣身の怪物「スフィンクス」が、紀元前二千百年の昔より、時の流れを見守り続けている。

カイロへは深夜の便で到着した。
私の荷物を狙う素振りの2~3人の男が、バスに乗るまで付きまとう。
一人は道路を挟んで私と平行に歩いてくる。もう一人二人、背後の薄暗闇の中から、ぎょろりと白い目を光らせ、 距離をじりじり詰め寄り、その視線は私の荷物へと、凄いテンションで注いでいる。
を抜いていたら、荷物を盗む気なんだろうか?
それとも、襲ってでも強奪するつもりだろうか?
初めてのアフリカ大陸の旅はシリアスに幕を開けた。

翌朝、目が覚めカーテンを開けると、ホテル5階の大きな窓一杯に、巨大なピラミッドが映し出され、息が詰まるほどに威圧してくる。
その向こうには、黒い石混じりの褐色の砂漠が、遥かかなたまで広がっている。
目を足下に転ずれば、褐色の民エジプシャン達の石積みの家々。
あさげの準備だろうか、煙も所々で立ち昇っている。
ここからは彼らの生活が、鳥瞰図よろしく垣間見えてしまう。

その時なにかしら背筋がぞくっとして、その辺りの路地に決して入りたくない、、、、 と真剣に思った。

ファラオラリーは、フランス人の元F1ドライバー、自らもラリーストの「フヌイユ」(本名ジャンクロード・モルレ)が主催する。
FIM・FISA(世界二輪・四輪モータースポーツ連盟)公認で行われる。
モト(二輪)、オート(四輪)、カミオン(トラック)の3クラスを有する、オフロード・クロスカントリーレイドである。

このラリーの素晴らしさは、他のラリーでは決して味わえないものです。
広大な砂漠や砂丘を、走破するばかりではなく、砂漠に点在するピラミッド、スフィンクス、さらにラムセスⅡ世神殿、王家の谷などの遺跡を巡り、シーザーの砦を間近に通り、クレオパトラも入ったと言う温泉でのキャンプもあります。
ナセル湖からナイル河をも見せ、エジプトを堪能させます。さらに一流ホテルのシェフが同行し、毎夜豪華な料理をバイキングスタイルで、いつでも好きに食事出来る、いたれり尽くせりのラリーです。

王様達のラリー!! (ファラオラリー)
これが主催者のうたい文句で、パリ・ダカールラリ-に次ぐ国際ラリーと自称している。

本当はよりストイックなパリ、ダカールラリーへ出るつもりだった。がこの年のコースは、パリからスタートしゴールがケープタウンとなり、アフリカ大陸を縦断する物となり失望した。
この頃の私は、とてつもなく広い砂丘を、延々走る事がラリーレイドだと思い込んでいたからだ。

うっそうとした熱帯雨林、ジャングルの迷路で迷子。
泥にはまり、巨大なヒルに全身を吸いつかれ。
夜になれば豹に狙われて、ついには頭を噛り付かれる。
そんな目に合うのは いやだ!
パリ・ ダカール(パリ・ケープ)はやめよう。
こうして砂の美しさと、ラリーをエンジョイ出来る事をうたう、入門者向けのファラオラリーへと矛先を変更した。

第10回「ファラオラリー」のスタートは、国祭日「エジプト軍の日」に重なる。
無数の見物人が、メンカフラのピラミッドから、数百米しか離れていないスタート付近を、埋めつくす。
人、人、人、、、、、車や、バイクばかりで無く、馬、ロバ、ラクダに乗りうろうろする者達もいる。
交通整理をしている警官の、懸命の努力も空しい。まるで報われる風は無い。
群がる群衆達は、ラリー選手の列もなにもおかまい無しで、すっかり飲み込んでしまった。
バケツにわずかな氷を入れ、コーラを冷やし、日本並みの価格で売りつけようとする物売りもいる。

この年、私を含め7人のライダーが、日本から参加していた。
九州は博多の3人チームは、田中君とその嫁友子さん、そして後藤君だ。
エジプトのホテルへ着くなり、いきなり田中君と、後藤君から日本円で約5万円ほど、お金を借してもらう事となった。
何故ならこの年のファラオラリーは、イタリアのジェノバでプロローグランがあったため、まずローマに航空貨物で、マシンを発送しておいた。
日本ならば一日で出来る通関業務ですが、イタリアでは、一週間から10日見ておいた方がいいですよ。のアドバイスどおり、二週間早くローマへ入った。

そうしてマシンの送り先の、ローマの運送会社で、通関が上がるのを待たせてもらう事となった。
その滞在中に、安宿、安レストランではカードがほとんど使えず、持っていた20万の現金を、残り5000円にまで使い果たしてしまった。
エジプト入国の際、ビザの代金約¥4,000円を支払ったら、見事な文無しだ。
カードでキャシングも出来るはずなのだが、どうすればいいのだろうか?
アメリカならいざ知らず、イタリア、エジプトでは、カードで下町暮らしをするのは、不可能な事が身にしみて分った。
毎日催促しに運送会社へ行くが、一向に通関が上がらない。私用のデスクを用意してくれ、毎日エスプレッソを頂き、毎日食べ放題のレストランで、昼食をご馳走になる。
家族経営の運送会社の皆に、ほんとにお世話になってしまい、今でも友達付き合いが続いている。
プロローグのある2日前、今日通関出来ないと、ラリーに間に合わなくなる~と、泣いて頼んだら、やっと重い腰を上げてくれ。 それからあっけないほどすぐに、マシンと再会できてしまった。 さすがイタリア?
田中君から3万円ほど借り、私としては充分かなと思っていた。
すると後藤君が、ガソリンもつがんといけん、村で食べないけんこっもある、もっと持ってないと、それじゃ足りんばい!と更に彼が2万ほど貸してくれたのだ。
ラリー中、自分達にも当然必要な、日本にいる時より随分貴重なお金を、しかもエジプト紙幣で貸してくれたのだ。
本当に人が良すぎる程の人達だ。

( 私)コーラ飲むかァー。
( 田中君)いいネェ~
(田中嫁) うちも飲むと!
( 私)ウメー!
(田中夫婦)うまかー。うまいとネ~。
(九州、後藤君)無駄使いしちゃいけんと! どうしてん買うなら、ねぎってから買わんと、いかんばい!
(私)ほーい。

そのうち、なまりのある英語が聞こえるな~と思ってたら、オージーさん達に囲まれていた。

プロローグのタイム順に並んでいて、お尻のあたりは、みんな無名選手なのに、記念写真のモデルに、サインにと忙しい。
なかでも後藤君はおばさま達に大人気で、入れ替わり立ち代わりで放してもらえない。これよりのち後家殺しと呼ばれる事になる。

Tシャツ、ステッカーをせがみ群がる子供達。
場数を踏んだ選手は準備良く、ポケットからステッカーを出し配っている。そこにはすごい数の子供が押し寄せる。
私の所に取り憑いた子供は、お前の着てるシャツをくれ!とせがんでうるさい。
払っても払っても顔の廻りを飛び回る、一人当たり10匹程のハエ。 かげろう揺らめく炎天下での、とてつもなく異様な喧噪(けんそう)と混沌は、ピークに達してしまっている。

眩しいほどに鮮烈で美しい、原色のラリーカーがひしめき並ぶ。最新鋭のワークスマシン達。
日本の大型ダンプよりも、更にふた回り大きく、見上げるような巨大なカミオン群が後に続く。
このワークスマシン達をサポートするカミオンもあれば、純粋な競技に専念する競技カミオンもある。

これらに対して右手には、砂に還りつつある世界最大級の建造物、ピラミッドとスフィンクスが鎮座する。

選手、観客、マシン、光景、砂漠、空気、何もかも融合しえない物ばかりを一同に集めた、素晴らしいほどのミスマッチワールドだ。
ワークスマシンも巨大なオブジェも、共にどれだけの数の人々が、一体何年がかりで作りあげたのだろうか?
私のちっぽけなマシン製作にも、本来の仕事をおっぽらかし、一日15時間労働で、丸3ヵ月を要している。

そうそう、ビール燃料で駆動する4~5人の友人達が、毎夜2時3時まで手伝ってくれた。 ありがとう!

同じモータースポーツでありながら、私は車による競技にはまるで興味が無いが。ワークスマシンの製作ともなると、とてつもない高いレベルの労力を、私のマシンの軽く、400~500倍は必要とするだろう事ぐらいは察しがつく。
そしてピラミッドの考古学もさっぱりだが、以前ピラミッドの製作方法、巨大な石の輸送方法にはなんとなく興味があって、その分野の本を流し読みした事がある。
どちらも熱望する人にとっては、これほどにセクシーな存在も無いだろうに。
その価値を私には見出せないところは、共通項かも知れない。
それにしてもこの目に映る対比。
現在、古代での時間のコントラストが強烈で、見事なまでの異様さ、非日常を創り出している。
世界中から集まった各国の選手、そして色々な肌のギャラリー。
年に一度のお祭としてなのか、エジプト人達もスフィンクスも待ちわびていた様だ。

エジプト政府は観光事業のイベントの一つとして捉えているのか、国を挙げての歓迎ムードも感じられ、ラリーのスタートは華々しい。
大きな軍用ヘリコプターも2機、レスキュー隊や観光客を乗せスタンバイしている。

日本を発つ前、「スタートラインに並べりゃ、それだけで90%の成功よぉー」と友人に言われていた。
その言葉には彼の優しさで、私がリタイヤした時の慰めをも、ちゃんと含めてあるが。 恥ずかしいから、せめてスタート地点までは、たどり着け!と言う命令でもある。
こうやってスタートを前にして、それまでの苦労?
まあ苦労と言っても、充分楽しみながらで、むしろ喜びといったほうが正しいのだが、、、これで報われたわけだ。

いよいよ見渡す限り地平線、砂の海を思いきり走れるぞ!と無邪気にもうれしい。
しかし、いよいよ私のスタートという五分前の事。
そろそろエンジンをかけておくかと思ったが、何度踏んでもかからない。

実はこの一ヶ月半前に、右足首をひょんな事から骨折し、テーピングに足首の曲げられるギブスを装着していた。
日本を発つ、ほんの数日前まで、松葉杖を使わなければ歩けなかったのだが、スタート日までには必ず直る!と信じることにしての参加だ。
内心は自分でも大馬鹿だと思っている。数十メーター歩くのでさえ、痛みで汗が出るほどなのに。 初めての出場ゆえ、苛酷な事で有名なラリーレイドの、その激しさにもこの時点では実感も無い。
マシン準備、資金集めにと、大勢の人達に手助けしてもらい、骨折ぐらいじゃやめる訳にいかない。
このラリーでかかる300万以上の費用は、貯まっていた訳じゃない。そのうちの200万は5年払いの銀行ローンだ。
なんと80万が友人、知人からのカンパで集まった。 ひたすら感謝!

創業10年の単車屋を営んでいるが、いつまでもぎりぎりで潰れないのが不思議なほどの赤字経営。
これを最後に、いよいよ潰れてしまうかもしれないと言うのに。
表向き平気を装っていたが、そこまで一大決心(事は大きいがまあそれもいいか!と言うレベルの解答で、決断には秒単位しか必要としていない)した上での出場だ。
やはり、どう考えてもやめる訳にはいかない。

このスタート日あたりでようやく、杖無しでびっこを引き引き、歩ける様にはなったものの、やはりまだ腫れも傷みも取れていなかった。
普通ならまたがって、左足で立ち右足でキックする所を、41Lのガソリンを積むマシンの右側に立つ。傷む右足に、少しでもショックがかからない様、祈りながら左足でキック。
そしてこの30℃を軽く越す熱さ。砂の照り返しで40℃にはなってる。
身を守るための、一見冬物の様な、頑丈なジャケット。その上顔までも覆う、フルフェイスヘルメットをかぶる。
我慢大会の方がましなぐらいの、フル装備だ。

朝三時に起き、午前中アレキサンドリア港から、220㎞のリエゾン(移動区間)を、快適に走ってきたばかりだというのに。
何度キックを踏み下ろしても、一向にエンジンがからない。慣れない左足でのキックのせいでも有り、後で考えると粗悪なエジプトガソリンが原因だ。
熱い!

太陽は頭のすぐ上にある。大粒の汗はこぼれる事なく乾いてゆく。
私のスタート時間が迫り、周りの選手、ギャラリーも心配そうに見ている。
去年のスタートも見に来てたんですヨ。もう一年以上アフリカを旅してます。 と言っていた日本人青年が、マシンをささえてくれた。
彼は日焼けで真っ黒、殆どアフリカ人に成りかかっている。
私は再び、全身全霊の力をこめ、左足によるキック!、、、、、キック!、、、、、、キック!
周りにいる選手達の大歓声と共に、ようやくエンジンが息を吹きかえしてくれた。
それはスタートのほんの十数秒前だった。